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​二元性を超える

極性を統合する

私たちの住むこの世界は、「善と悪」「光と闇」「自と他」「男と女」というような二元性の世界としてあります。この相対する2つのものが別々のものであり、分離しているという感覚、すなわち善と悪の対立、自己と他者の分離というイメージの原型は、人の深層意識の中に根深く刷り込まれています。この二元性の分離の認識が、長い間、私たちの世界に葛藤と欠乏感をもたらしてきました。

二元性の分離パラダイムの中では、人は「存在のすべて」から切り離されているという幻想をいだきます。自己と大いなるものが切り離されているという感覚は、人に無価値感や無力感、恐怖や欠乏感をもたらし、争いや貧困、病気の原因となってきました。

現在、人はこの幻想を乗り越えて、自分たちが「存在のすべて」とひとつであることを思い出す過程にあります。分離から統合へと向かい始めているのです。

 

意識が二元性を統合した領域(存在レベル)に至ると「存在するものすべて」が、実は神そのものであった、神以外は本来何もなかったという認識に至ります。

大空に輝く星々、空を渡る風、海洋の水、大地、草花、生まれては死んでいくすべて生き物など、「存在するものすべて」が神として在ります。

この見方によれば、この宇宙のすべては神の聖なる神殿といえるでしょう。

そして、自分自身もまた神の現れそのものであり、無限の価値と力と愛、歓びと豊かさに値する存在であるということを思い出していきます。

人が長い間忘れていたことを思い出し、本来の自分自身に目覚めていくのです。

どのように二元性は統合されるのか

 

二元性の統合は、意識の振動数の上昇と共に起こります。

意識の波動がより精妙で細かくなり、意識が認識の対象物に抵抗することがなくなり、大きく広がっていき、その振動数がある一定の水準を超えたとき、人は二元性には実態がないということに気付くのです。

これが良くてあれが悪い、こちらが上であちらが下と無自覚に思い込んでいた観念が力を失い、二元性は相対的なものにすぎず、世界は何ひとつ変える必要はなく、ありのままで完全な姿をしているという理解が起こります。

 

意識の振動数を上げるとは、言い換えれば、それが何であれ一切を無条件に受容することです。

すなわち、ものごとの光の側面、成功や健康など望ましいものと同様に、闇の側面、失敗や病気など、一般に忌避すべきものも無条件に受け入れるということから二元性の統合が起こります。

受容に条件を付けることから「善と悪」「自と他」といった二元性の分離が生じるのです。

良いものは受け入れるが、悪いものは拒絶し、非難し、変えようとする心的態度が、苦しみと分離、葛藤を生じさせます。

苦しみと葛藤は、あなたが悪と判断した事象それ自体から生じるのではなく、それを否定することから生じるのです。

相対性を見破る

 

そもそも二元性は相対的なもので、一方があるから他方もまた存在しえます。

右という概念が左という概念の存在なしには成立しえないように、二元性には本来実体はなく、二つの対立する概念の関係性の中でのみ成立します。

悪というのも相対的なことで、善と判断することの対極を示しているにすぎません。ただ客観的な現象と経験があるだけであり、主観的な判断で、あることが善でその対極が悪であると決めているのです。その判断基準は、判断する者の個人的認識でどのようにでも変化します。

 

その人の意識の波動が粗い場合、つまり、現実の受容ができず認知の対象物に抵抗している状態では、観念は硬直化し、外部の存在物の印象は「悪」であるかのように思えます。

その反対に、その人の意識の波動が精妙になると、意識は認識の対象物に抵抗することがなくなり大きく広がっていきます。

すると、観念は柔軟になり、ひとつのものごとを多くの観点から判断できるようになり、ものごとは善にも悪にもなりえるという理解に至ります。

さらに、ものごとはただ起こっているだけであり、そこから自分で自由に意味を引き出すことができ、ただそうあるままで完全な姿をしているという理解に至るのです。

 

認識されるものすべてが、実は自分の意識を投影しているだけだということを理解し始めると、自分の意識を変えることが、あらゆる問題の唯一の解決方法であることに気付きます。すると、外側の世界に見えている、自分の思い通りではないものを変えようとしたり、非難したりすることはなくなります。

 

世界には達成すべき善や、避けるべき悪などもともとなく、世界はそのままで完璧なものとしてすでにあったのです。ただ人の目にはそれが見えていなかっただけなのです。

賛成できるものと同様に、賛成できないものにもまた完全性を見ることができます。

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