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​欲望

恐れを動機とした欲望

欲望について洞察を深めるとき、欲望を「怖れを動機にした欲望」と「純粋欲望」の2つに分けると理解が深まります。この2つは多くの場合重なり合っており、明確に分類することは難しいのですが、欲望を理解する上でひとつの指針となるでしょう。

「怖れを動機とした欲望」とは、人が欠落感や無価値観を抱いており、その欠けているものを補うために何かを欲するときの衝動です。もし自分にこれがあったらきっと満足するだろうと考えて何かを欲します。この欲望を持つ人は、ありのままの現実に肯定感が持てず、自分の期待通りに自分の外側を変えようとします。
例えば、「自分には充分な豊かさがない。だからもっとお金が欲しい。」「自分が価値あるものであるためには他人から評価されなければならない。だから社会的ステータスのある地位を手に入れたい。」「自分が満たされるためには、あの人の愛が絶対に必要だ。」といった思いです。


この欲望が生じるとき、人は自分には何かが欠けていると感じているので、欲望の対象物が、自分の幸福のために絶対必要なものに感じられ、それに執着心を持つようになります。
自分が幸福であるためには、現実は自分の期待通りでなくてはならず、欲した結果が満たされないと苦しみを経験します。
この場合の欲望とは、条件付きの受容に基づいた強迫観念のようなものです。

意識が無条件の愛に共鳴し、存在レベルへと移行するにともなって、世界はそのままで完全であるという認識が深まり、不安や欠落感、孤独、無価値感といった負の感情を経験することが減っていきます。すると怖れを動機とした欲望は力を失い、自分の外側を自分の思い通りに変えようとする衝動も減っていきます。


つまり、「必要としなくなる」のです。
特定のものがないと自分は幸せになれないという思いから自由になり、他人を自分の思い通りに振る舞わせる必要からも自由になります。
欲しいと思っても好みの問題であって、絶対に必要というわけではなくなり、欲望から執着心か消えていきます。

すると、自分の期待通りでない現実があったとしても苦を経験することがなくなり、起こることをそのまま許せるようになります。
愛は人を満たし、人を無欲にするのです。

純粋欲望

意識の在り方が変化し「恐れを動機とした欲望」が減少するに従い、欲望はその性質を変え「純粋欲望」が優位になります。純粋欲望とは、神性を内に秘めたそれぞれの魂が、自らの栄光を最高に表現しようと欲する創造への衝動のことです。
例えば、画家がただ素晴らしい絵を描きたいと願い、その衝動に従って絵を描くように、科学者が真理を知りたいと願い、その衝動に従って研究を進めるように、惹かれあう男女が愛するが故にひとつになりたいと欲するように、純粋欲望とは自らの内側から湧きあがる最高の経験への衝動です。
神が私たちを通して自らの栄光を体験したいと欲したその情熱は、願望となって私たちを突き動かします。

存在レベルの意識状態においては、すでに満たされており何ひとつ求める必要はないという理解が起こるのと同時に、自分は神の現れであり、無限の豊かさと喜びに値するという信頼もまた生まれます。ここで無欲と大欲が併存することになります。

逆説的ですが、「欲望から自由になった意識」と「無限の豊かさを自分に許容する意識」は、実は同じものです。

そもそも何も求める必要はないと分かり、神の現れとして求めるものは全て与えられているのだと分かると、祈りは何かを願うものではなく、感謝の祈りになります。
持っていない何かを求めるのではなく、自分が「存在すること」に感謝し、すでに多くのものが与えられていることに感謝し、たとえ辛い現実があったとしても、それを完全に受容し、自らが創造した価値あるものとして、最善のことが起きていると知って感謝するのです。

受容と感謝は、自分が「存在」に完全にサポートされており、望むものは無限に供給されるのだという信頼を生みます。

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