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​存在

ただ「在る」こと

意識の波動が上がり、自分自身にも、自分自身を取り巻く世界にも否定すべきことがなくなり、なにものも裁くことがなくなると、意識は二元性を統合した領域に至ります。

この意識領域においては、「上にして下」、「完全にして不完全」、「行くことは来ること」、「留まる程に前に進む」、「全体がひとつになる程に部分の個性が強まる」といったように2つの対立する概念が、矛盾しながら1つに統合されていることに気付くでしょう。

無条件の受容は、2つの相対するものを相対したままで1つに統合します。

そして、この意識領域においては、自分が「存在する」ということや、世界が「存在する」ということが、新たな、かつ重大な意味合いを持って目の前に立ち現れます。

自分も自分を取り巻くこの世界も、存在するものすべては、ただそうあるものとして完全であり、すべては神からできているという認識が起こるのです。

同じひとつのものが存在のすべてに行き渡っており、本来、私たちの間に分離はなく、ひとつのものが、さまざまな姿をしてこの世界に現れています。

私たちは、神の分身として、「無限のもの」として創造されているのです。

 

私たちすべては、ただ「存在する」というだけで無限の価値があり、際限のない喜びを経験できるように創造されています。

自分が価値あるものであることを証明するために、しなければならないことや達成しなければならないことなど何ひとつとしてありません。たとえあなたがどのような状態にあろうとも、一切の条件を付けることなく無限の価値があります。

私たちは、「存在する」、ただそれだけで無限の豊かに値するのです。

 

イエス・キリストのような人と普通の人々の違いは、自分が完全であるということをどれだけ自覚しているかという点にあります。イエスは、自分が完全であることを自覚しており、普通の人々は、自分が完全であることをまだ思い出していないというだけのことです。

意識の進化とは、自己に内在する神性を思い出すプロセスといえます。

悟りとは、到達すべきことなど何もなく、すでに到達していたということに気付くことです。

 

「存在のすべて」が神聖なものとしてあります。

それは光であり、光を可能にする闇です。善であり、善を可能にする悪でもあります。

神聖さとは、光と闇、善と悪、その全体性にあります。受容に条件を付けることから心の中に否定すべきものが生まれ、二元性の分離が起こるのです。

二元性の分離のパラダイムの中では、人は望ましいものと望ましくないものあるという固着した判断に囚われてしまいます。この認識は、善と悪の戦い、闇への恐怖、世界には欠落したものがあるという幻想、ひいては自己と他者の分離、自己と自己の内なる完全性からの分離という感覚を生じさせます。

 

自分自身を含め、世界に欠落したものがあるという認識は幻想です。自分自身やあなたを取り巻くありのままの現実を愛すれば愛するほど、すべてがそのままで完全であることが分かってくるでしょう。外見上、欠落したものがあるように見えたとしても、それは、さらなる完全へ向かうひとつの完全性の現れです。

ひとつの完全な状態から、より好む別の完全な状態へ移行することはできます。しかし、欠落した状態から、完全な状態へは移行することはできません。

 

苦しみの只中にあり、どれほど世界が不完全なものに見えたとしても、プロセスの完全性を信頼し、そのままの現実を深く受け入れ、そうした状況にさえ感謝するとき、そこにこの上ない祝福が隠されていたことに気付くでしょう。

存在から経験へ

「存在」という無時間で非二元の至高状態を「経験する」には、二元性と行為、そして時間が必要になります。

私たちの本性は神であり最高のものとして創造されています。私たち個々の魂は、この最高のものという「概念」を二元性の中で最高の「経験」に変化させていきます。

経験を作り出すには二元性が必要です。神は自らを経験的に知るために自らを2つに分割して相対性という仕組みを作りました。

そして、個々の魂は経験によって自らを知るために何かをしたいと願い、行為を通じて最高の考えを実現しようとします。行為には原因から結果へと向かう時間が付随することになります。

意識の存在レベルへの移行に伴い二元性は消失しますが、行為のレベルにおいて二元性はもう一度、別な在り方として現れます。

 

善である自分を経験するためには悪が必要になり、女性である自分を経験するには男性が必要になります。ひとつであることを経験するには分離が必要になり、上を経験するには下が、冷たさを経験するには温かさが必要になります。

自分が何者であるかを経験するには、自分でないものに向き合う必要があり、二元性の中で自分は何者であるかを決定し最高の自己を実現するのです。

つまり、現実に起こっている事柄のなかで悪という現象を選び出し、善としての自己を実現する、肯定も否定もない本来完璧である現実の中で肯定的な意味を見い出す、相対的な不完全さに気付いたら、さらなる完全性を実現するということです。

 

自分が選択しなかった一部には、自らを表現するために必要な一部があります。自分が選択しなかった一部を「悪」や「不十分なもの」として否定しないで下さい。自分の賛成できない意見や行いがあるからこそ、自分が何者であるかを実現し体験できるのです。

争いのあるところで平和を選択した自己を実現でき、苦悩と混乱の中で愛を選択した自己を経験できます。健康な人は自分が健康であるとは意識しません。病気になったときに初めて健康であることの大切さを知るのです。

もしそこに光しかなければ、それが光であることさえ理解できないでしょう。闇がなければ光を経験することはできません。闇を光の一部として無条件に愛するとき、そこに否定すべきことは何もなく、闇は光と同様に価値あるものになります。そのとき避けるべき闇は消滅するのです。

 

より豊かでより高度な自己を実現し、より喜びの多い人生を選択することで、個々の魂は最高のものとしての自己を経験します。願望は次に何を経験するかを指し示し、魂は行為によって願望を実現し、新たなより素晴らしい経験を積み重ねていきます。

神性を内に備えた私たちは、想像しうる限り最高の願望を実現し、自己の偉大さを経験する価値と力を備えているのです。

そして、この宇宙には、それぞれの魂が最高の経験を実現する完璧な仕組みが備わっています。神は自らの栄光を私たちを通じて経験しようとしているのです。

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