​世界は意味から中立

それぞれのフィルターを通した世界

 

私たちの認識する世界は本質的に意味から中立なものであり、あらかじめ決まった意味を持っていません。ひとりひとりの個人は、それぞれの意識のフィルターを通して世界を解釈し、意味を与えています。

同じ世界を見つめたとしても、ある人にとっては恐怖と不足の支配する危険な場所に見えますし、ある人にとっては、人と人の結びついた安全で豊かな場所です。

同じありのままの自分であっても、ある人にとっては、劣ったところの多い無価値な自分であり、ある人にとっては、多くの欠点を抱えながらも、なお尊厳と力を備えた自分です。

また、ある人にとっては、自分は環境の犠牲者であって、親や社会は非難すべき対象であり、ある人にとっては、困難な状況は自分が成長する良い機会と映ります。

 

 

自分の与えた意味を自分が受け取る

 

どのような状況もあらかじめ肯定的であるとか、否定的であるとか決まった意味を持っていません。どのような状況に対しても私たちは自由に意味を与えることができます。

ある状況に対して肯定的な意味を与えれば、肯定的な結果を得ることができますが、否定的な意味を与えれば、否定的な結果を受け取ることになります。

病気や貧困、失敗、不和など人生で経験するさまざまな逆境や、自分が正しいと考える価値規範に反する出来事に対して、人は自動的に否定的な意味を与えてしまいますが、それらもまた意味から中立なものです。

 

もし他人が意図的にあなたに否定的なものを与えたとしても、あなたがそこに肯定的なものを見ようと決めれば、あなたは肯定的なものしか受け取ることはできません。

あなたは、あの人が私を傷つけたとか、あの人のせいで不利益を被ったといった被害者としての体験を選ぶことはできますが、それは実在する現象ではなく、あなたの主観的な反応です。

 

人は現実をありのままに見るのではなく、こういうことが起こればこういう意味だと、出来事に対して自動的に意味付けをしてしまいます。

子供の頃から「これは良くて、あれは悪い」「こういうことが起これば、こういう意味」といった固定した観念を親や社会から教えられ、それらを無批判に採用しています。

しかし、私たちが疑いもなく信じているものの多くは、そう教えられただけで、本当は単なるひとつのものの見方にすぎません。

人は意識のフィルターを通して世界を解釈しており、そのフィルターは親から教えられたものであっても、社会的に同意されたものであっても、決して普遍的でも固定的なものではなく、柔軟に変化させることができるものです。

 

もしある出来事に対して悲しみや失望など否定的な感情を抱いたら、その出来事に対して自分はどのような観念を持っていたか探ってみて下さい。感情は、その人が正しいと信じている観念に従って出てきます。その出来事を肯定的に解釈する別な見方はないだろうかと柔軟に探ってみて下さい。

 

 

思考の硬化

 

外界を解釈するときの基礎となる観念は、意識の波動の状態によって柔軟性や内容が変化します。

これまでの一般的な人の意識レベルである二元性の分離の意識領域においては、認知の対象物の受容に一定の条件が付きます。これは、ものごとを判断したり裁くといったエネルギーです。

ある条件をクリアしたものは受け入れるが、そうでないものは受け入れないというように受容に条件を付けると、意識の中で分離が起こり、否定的な何かが認知されるようになります。すると同時に意識のフィルターの中に「こうあるべき」「こうでなければならない」といったような制限的な観念の縛りが生じます。

 

つまり、ありのままの現実を受け入れるのを拒めば拒むほど、否定的なものが意識の中に現れ、人は絶対的な正しさや固定的な善悪の観念に囚われていき、本来は意味から中立であるはずの外界に対して、固着した意味付けしかできなくなるのです。

その観念(判断基準)の多くは、親から受け継いだものや社会的に同意された価値観、政治宗教的イデオロギーなど、自分の外側から持ち込まれ、無意識的・自動的に採用されたものです。

現実世界には自分の定めた価値規範にそぐわないことが多々あるわけですから、人は「悪いもの」や「間違っているもの」を認知して否定的な感情を経験し、間違っているものを正そうとして対立が生じることになります。その対立の範囲は、個人と個人の間の不和から国家間における外交上の対立、政治宗教的なイデオロギー上の対立にまで及びます。

 

 

思考との同一化

 

意識の波動が低く粗くなるほど思考や観念が硬化し、それらを柔軟に見直したり変化させることが困難になると同時に、思考との同一化が生じ、自分の思考が作り出したものを絶対視し、根拠なく実際にそうであるかのように信じてしまいます。

いったんある思考や観念に囚われてしまうと、あらゆる出来事をこの思考のフィルターを通して見るようになります。すると、自分のフィルターに合致するような出来事は認めてそれを更に強化し、自分のフィルターに反するようなことは、都合の良いように曲解したり、無視したり、悪と決めつけて排斥するようになります。

 

人が思考というフィクションに巻き込まれてしまうと、その人が外界に与えている意味や判断が、心の作り出した実態のないものであることに気付かず、外界の出来事に対してさまざまな反射的影響を受けることになります。分離感の強い固着した観念は、「外側の否定的なものごと」という幻影を作り出し、それがあたかも実際に存在するものと錯覚することになります。

すると「外側の否定的なものごと」が世界に何か悪いことをしているように思えたり、自分を苦しめているように感じられ、恐怖や不安といった感情を経験することになり、その人の周辺には対立や分離が生じることになります。

 

さらに、「こうあるべき」「こうでなければならない」といった硬直した価値規範とその思考への同一化は、他者や社会に向けられるだけではなく、自分自身に対しても向けられます。

例えば、人は勤勉に努力すべき、人はきちんとした職業に就くべき、女性は痩せて美しくなければならないなど、人によってさまざまでしょう。

自分がこうした価値基準に適っているあいだは良いのですが、そうした「良い状態を担保するための規準」から外れた場合、自分は悪いもの、無価値なもの、愛するに値しないものになってしまい、自分は基準に達しない無価値な人間だという思考と、それにともなう重い感情を経験することになります。

 

人が硬化した正しさという意識のフィルターに囚われ、苦しみと対立を生み出しているとき、それはあなたのハートが開いていないと知らせる天からの合図です。

その苦しみは、あなたの中にまだ分離の波動があり、それを統合するよう促しているのです。自分が何かを裁いていないか、何かを否定していないか、内省してみる良い機会となります。

 

 

否定的なもののないパラダイムへ

 

意識の振動数が上昇し、そのままの現実を受容できるようになると、「こうあるべき」「こうでなければならない」という硬化した観念は力を失い、ひとつの固着したものの見方は多様で柔軟なものへと変化します。

社会一般には「悪いこと」とされるものごとにも、多様な観点からその意味を探ることができるようになり、思い通りにならない現実や、自分が被害者だと思っていた現実にも新たな角度から光を当てることができるようになります。

一面的に「悪いこと」も別の視点から見れば「良いこと」にもなりえるのであり、本来すべての状況は意味から中立で、自分の与えた意味が自分に返ってくるにすぎません。

 

二元性の統合された意識領域に移行すると、本来、私たちは完全に祝福された存在であるという理解が起こります。それは、自分が幸福であるためには、満たすべき条件も努力も犠牲も不要であり、無限の価値と豊かさは、私たちに内在する本質的な性質であるという理解です。

すると自分には良いことしか起こらないと考えることが一番自然なことに思えます。

自分の外側で何が起ころうとも、「自分は完全に祝福された存在である」という意識のフィルターを通すと、その出来事は何であれ自分に奉仕してくれものになります。

私たちは神の反映として創造されています。

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